20年以上前に、パトリシア・ハイスミスの小説「殺意の迷宮」を初めて読んだ。大雑把な筋立てで、時に矛盾し非論理的なところもあったが、物語と欠点をもつ登場人物に私はなぜかゾクゾクするものを感じ、その感覚は決してなくなることはなかった。それが、自分で監督したいとやむにやまれぬ気持ちで脚本を書き起こした唯一の小説である。その理由は、これらのキャラクターたちの感情的矛盾と欠点の多くが自分自身と重なったからだ。ハイスミスには、我々が隠したい部分、特に人間の屈辱的な感情や言動に光を当てる、並外れて鋭い才能がある。彼女が描くキャラクターたちは、嘘つきで、詐欺師で、酒飲みだ。彼らは見境なく嫉妬し、妄想を抱く愚かな人間だ。だが、こういう欠点だらけの矛盾が、彼らを痛々しいほど人間的で共感のもてるキャラクターにしている。
映画では人間性の暗い側面が探究されることは多いが、弱い側面はめったに描かれない。それがこの小説に魅力を感じた理由でもある。映画の冒頭でライダルが「神が人間に仕掛けた残酷な罠だ」と言うところがある。この映画の三人の主人公たちは神に翻弄されるが、同時にある意味では、自分たちの運命に苦しみながらも抗っている。監督として、私は三人全員を愛おしく感じた。彼らを、顕微鏡を通して細かく観察しようとは思わないが、彼らの過ちに加担し、彼らのモラルや感情的なジレンマに共感し、彼らの恐怖心や悲嘆を分かち合いたいと思った。
1960年代のギリシャやトルコを絵葉書のように描きたくはなかった。むしろ、彼らの心理的状態を反映した世界を描き、心の地下世界に降りていきたいと思った。これらのキャラクターたちは、欠点だらけの人間だが、それぞれが勇敢に生きているのだと思う。人生は彼らを打ち負かそうとするが、その敗北の中で、彼らは凛々しく人間的に見える。それは神に対する彼らの叫び声なのだ。